紡ぎだされる物語(セカイ)。
自由奔放に、揺らぐ自分を楽しむ。
猫のように生きていけたらいいなぁ
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ご無沙汰してます、栖依です。
今日からイベントです。
少し前からスタッフとして携わっておりまして、
ここ数週間はほんとに、仕事仕事で苦い思いをしておりました。
終わってみて思い返すと、自業自得であったり、横着した結果面倒になっていたり、
という状態なのですが。
いろいろ教えてもらえました
いろいろ気づきました
でも眼前の問題として、卒論放置したのはよくなかったかな。
どうしてこんなに、時間をつぶすように
イベントスタッフだバイトだサークルだと入れてしまうのかと、
実は結構考えていました。
なかなか答えにはたどり着かなかったけれど。
ほんとは、気づきたくなかっただけ。
純粋に、何かに対して努力している人が
うらやましくてうらやましくてしょうがなくて。
自分がそれをしようと思うと、大きな阻害要因があって。
その阻害要因から逃げて逃げて逃げているのだと、認めます。
その純粋さやまっすぐさは、栖依にはないもの、だから。
やりたいことほどダメだといわれて、
努力するべきもの、達成するべきラインを提示されて
できたら「あ、そう。じゃあ次」
できなかったら「なんでこんなものもできないの?」
自分で認識している以上に、これとこれへの恐怖が染みついているみたい。
しかもそのハードルが決して低くなく、
相応に時間をかけないと達成できないというところが味噌。
実際、勉強以外、あまりしてこなかったんだなぁ、大学入るまで。
だから無条件に好きなことをやらせてもらえて、
親がそれに対してしぶしぶながらも支援してくれて、
な人を見るとときどきどうしようもなく憎くなる。
恨んではないよ。
その人は何も悪くないもの。
ただ、焦がれすぎてどうしようもなくて、
その感情が憎さとすごく近似しているだけ。
だから憎いという言葉も適切ではない。ほんとは。
自分で稼ぐようになって、家から出たら、
この憎さからも、臆病さからも抜け出す努力ができるようになるのだろうか
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こんにちは、栖依です
もう少しで夏休みが終わってしまいます・・・
成果は、ちょっとだけ日本史を覚えたことと、ロラン・バルト『明るい部屋』の読破ですかね。
さて、今日は連続投稿します。
まず。
男女間に友情はあるのか、という話。
これは本題じゃありません。
周りは結構「成立する」が多数派。
「成立しない」もそこそこ。
でも栖依は、異性間にも同性間にも友情はないと思う。
それは友情っていう概念の定義の曖昧さが第一だけれど、
そもそも ある / ない で語ることのできるものなのか?っていう疑問。
だって存在しているかどうか、よくわからないから。
実体を持つモノが存在しているのは大多数に認識できるけど、
友情とか愛とかって証明することができないからね。
あと、愛と友情はどう違うか、とかね。
愛について。
少なくとも栖依は、人間誰しも自分のことを愛してると思うんだよね。
愛する = 大事に思う、だとすればの話だけど。
大事に思おうとして大事に思うわけではなく、ごく自然に意識することなく大事に思う、ね。
自分のことが好きか嫌いかと、自分を愛してるかは別問題。
好き / 嫌い を考えるそれ以前に、人は自分の存在を愛している。
たとえば、自分の好きなことをしてる人。
たとえば、自分の現状を肯定してる人。
たとえば、自殺する人。
夢に向かって頑張るのは、自分をもっと高めてあげたいから。
自分の現状を肯定できるのは、自分のしてきたことを認めているから。
自殺をするのは、つらい状況の中にいる自分を楽にしてあげたいから。
ほら、人は自分自身を愛している。
たとえ自分のことは嫌いでも。
そうやって考えていくと、愛、愛おしく思うことは、大事にすることにつながるよね。
自分に傷をつけるひとたちはきっと、自分は生きてるって自分にわからせてあげたいんだ。
それで、その対象に愛をもつってことは、好き嫌いとは別次元の話だと思った。
じゃあどういう時に愛をもつ?
もともと外部にあるものを愛する最初のきっかけは、好きになること。
好きになるのはどうしてか、それはいろいろあると思うんだけど・・・
結局は、自分に響くこと。不協和音じゃなくて、和音で。
調和することだと思うんだ。
調和したら、次に何が起こるか?
それは、その対象が自分の中に内在化すること。
外部にあった他者が、自己の一部になる。
そこで、愛が生まれる。
日本人はよく身内、ウチという言葉を使うけど、
最近は、自分を指してウチ、という。
つまり、愛を持った時点で他者じゃない。
それは拡大した自己である。
外にあるものには、愛は抱けない。
基本的に友情って言うのは異なる他者同士の間で成立する信頼とか、
そういう風に思われていると思うんだけど・・・
つまり、友情 = 愛 だと考えた場合
友情はない。成立しない。
その時点でもう、他者ではないから。
夫婦について考えてみる。
彼らも元々は他人同士である。
でも愛する(自己を拡大し、互いを自己の一部だと感じ、大事に思う)ことを誓った。
その証として、同じものを身につけたり、苗字をそろえたりする。
これは可視的な同一化が儀礼として行われていると捉えられるのではないか?
愛していることを、他人に知らせるため、だよね。
そして住環境を共有し生活を共有しやがてはこどもを共有するわけだ。
つまり、夫婦というひとつの存在になる。
よって、そこには愛がある。
はい、QED
んー、最近考えてたことを並びたてたらよくわからないことになった。
結局、離婚する夫婦っていうのは、単純に好きだっただけで愛してないんだよね。
栖依の考え方から言わせると。
戯言です、はい。
いや・・・傑作かなぁ?
お久しゅうございます、みなさま
ついに、今年も後半戦に突入しました!
夏休み前半は結局何もできなかったので、
とりあえず8月は部屋の片づけから始めたいと思います。
勉強したい、勉強したいて言ってるわりに勉強は進んでないです。
ん~・・・なんでだろ。
まぁ、夏休み入ってから精神的転調が多いこととかが原因かな。
彼氏ができ(いぇいっ)、生活リズムを崩しちゃった部分が・・・
「気にしすぎだよ、寝ていいよ」とその人には苦笑いされましたが(笑。
それで、勉強するのはこの夏休みは最低限だけ。
とりあえず、ずらしちゃったリズムを修正してからにしようかと。
あ、『都市計画の世界史』読み切りました。
栖依の興味に合致していて、非常に楽しかったです♪
様々な変遷を経て現在の都市の姿があるわけですが、
浮上する問題、対処策の根本はあまり変わっていないのではないかと考えました。
そういえば、建築工学の友人が増えまして、工学への足がかりを掴むことができました。
彼を含め、数名でお茶会をしたのですが、
その時に学問の括り(人文、社会、理、工)の話が出まして。
ある人が栖依を指さして「人文系」と言ったのに対して少し怒ったのですが・・・
栖依がやりたいこと、ってなるとどうしてもそのあたりの領域が曖昧になる。
「都市と芸術」という漠然とした抽象的な概念は、
人文科学でも社会科学でも工学でも(理学は思いつきませんが・・・)扱われているわけです。
そういったものを研究する際に、確かにひとつの学問分野に絞るのは利口ですが、
もっと間口を大きくして、広くとらえてもいいと思います。
そしたら、新しい発想も出てくるかもしれない。
栖依はいまだに適正不明だからそう感じるだけかもしれませんが
学問に壁なんてない。
それは、超えるべきものだ。
ひとつにこだわれば、それを突き詰めることができる。
それはそれで素敵なことです。
でも、学問の壁を取っ払うこともいいんじゃないかな。
しばられないで取り組むこともできる。
要は、
どちらも一長一短なんだからすべてを枠組みに収める必要なんてない
と声をあげて主張したいんです。
さて、気持ちを切り替えて頑張ろうっ!
このブログも、もっと更新していけたらいいなぁ。
栖依でした☆